聖 書 ルカによる福音書 16章19-31節
ヤコブの手紙 2章21-24節
讃 美 歌 209 めさめよ、こころよ
504 主よ、み手もて
交 読 詩 編 17編1-2節
招きの言葉 イザヤ書 66章1-2節
神の律法(おきて)の中で大切なことは何でしょうか?
神が人を慈しみ愛したように、私たちも互いに慈しみ愛し合うこと。
このことを念頭におきながら、考えてみると、
イエスの語った「金持ちとラザロ」の話にはどんなメッセージが込められているでしょうか。
金持ちにとってラザロは眼中にありませんでした。
金持ちの家の残飯を頼りに生きていたけれども、ラザロに食事をあげようという気持ちはこれっぽっちもなかったのです。
階級意識ということがこの社会にはあります。
たとえば、身分制度というものは、多くの国の社会の中では公に問われることはなくても、人々の意識の中では姿を変えて残っています。
皆さんがご存知のように、江戸時代には身分制度が存在していました。
士農工商という身分制度です。
武士のすぐ下に農民が置かれているけれども、そのことで農民が利益を得たということはあったでしょうか?
渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマが放映されていますが、栄一の育った養蚕を生業としていた家はどうだったでしょうか?
何かにつけて役人から金を要求され、搾取をされて、そのような理不尽に栄一自身、こんな事はおかしいと心底から怒り、はらわたの煮え繰り返るような思いで若き日を過ごした様子が描かれていたように、結局は武士や役人の都合の良いように利用されていただけの存在だったのです。
時代が変わり、人の意識を変えていくような必死の取り組みがあって、初めて人の権利や立場を考慮するということが社会の中でも意識されるようになりました。
ラザロは自分の病気と貧困によって、人並みの生活を送ることはおろか、人に情けを掛けてもらえず、生涯を物乞いをして過ごしたのです。
しかし、天上にはラザロを憐れむ神の心があったのです。
だったら、どうして地上にいる内に少しでも人として尊厳をもった生活ができるように助けてあげなかったのですかと、神に文句を言いたい人もいると思いますが、人の世で起こっていることを神が全てコントロールしている訳ではないし、そうしようとするつもりもないのだと思います。
そして、人はラザロのような人間には無関心であったとしても、それを社会にある貧困の「問題」としては取り上げようとする人がいるものなのです。
だから、私たち自身とて、自分はラザロのような者ではないという意識が働いてはいないと、どうして言えるでしょうか?
子どもの頃よく読んだ、『王子と乞食』の話を思い出します。
現在では、乞食という表現は用いないという申し合わせになっていますが、その時代の中で使われていた表現でなければ、いくら言い換えをしても伝わらないところがありますので、作品の表題のままで使いたいと思います。
ひょんな事から、ある国の王子と街の貧困地域で暮らしている乞食の子どもが出会います。
顔を見合わせて二人ともびっくりしてしまいます。鏡で見るように、顔も姿、形もそっくりだったからです。
王子の好奇心から二人は立場を入れ替わります。乞食の子は宮殿の中に、王子は街の貧困地域に生活の場を移すのですが、二人ともこれまで経験のないことに驚きの連続。王子は、王子としてのプライドがあるので常にお高く振る舞いますが、乞食の子はあまりの環境の違いにどう振る舞えば良いのか、たじろぐばかり。
立場が違えば、生活の仕方はこうも違うものかということを、とりわけ王宮に入った乞食の子は驚きと共に経験するのですが、やがて王子のふりをして生活していることに耐えられなくなり、そのことを周りにいる人々に訴えるのですが、どう見ても王子にしか見えない本人の訴えに誰もまともに取り合ってはくれませんでした。
自分の真実な姿を誰も知らないということは、時と場合によっては楽なこともありますが、そのままで暮らし続けることにはやがて耐えられなくなるに違いありません。
中年以降の皆さんはご存知だと思いますが、フランスの『太陽がいっぱい』という映画は、その美しいテーマ曲を背景に、美男子の代名詞であったアラン・ドロン主演の映画で、彼の出世作です。ドロン演じる青年は、洋上で自分を見下している友人を殺してしまいます。そして、美しい彼女と富とを得て、その友人になりきって気ままな生活をエンジョイするのですが、最後に大どんでん返しが待ち受けています。
偽りの自分で生きていても、真の幸福は訪れはしないということです。
王宮での束の間の贅沢な生活をエンジョイしていたかに見えた乞食の子も、王子であることを偽って生活することには耐えられなくなってしまったのです。
それと同じで、地上の生活においてはラザロはラザロ、金持ちは金持ちであって、変えられない運命があるものなのです。
『どうして自分だけこんな境遇で生きなければならないのだろう。』
さまざまな立場にいて、このようなつぶやきを持つ人は決して少なくないと思います。誰もが、映画に出てくるような大逆転のサクセスストーリーを経験できる訳ではありません。
しかし、そういった現実が少しでも変えられるとしたら、そこには慈しみ深い人がいて、手を差し伸べてくれるからに違いありません。
ラザロは、生きていた間は、そういった幸運にめぐり逢うことができませんでした。すぐ近くに、有り余るほどの富を持った金持ちがいて、彼の家の残飯を頼りにして生きていたラザロのことを知っていたにもかかわらずです。
神は、その現実を変えようと直接に手出しはしませんでした。でも、ラザロの現実はしっかりと見てくれていたのです。
考えてみると、誰かが経験している過酷な現実を知ってはいても、直接手を出すことができる人はそう多くはないのだと思います。助けてあげたいと心からそう思っていたとしてもです。
そうであったとしても、もし、その人の境遇やその時の思いを理解してくれる存在がどこかにいたらどうでしょうか。自分の気持ちを分かってくれる誰かがいるとしたら。
看護学生のホスピス見学実習というプログラムがあり、年間に何校もの看護学校から学生が来て、施設を見学したり、スタッフやボランティアから講義を聞いて、終末期医療の理解を深める学びの機会を持っていました。
私も、チャプレンの働きを通して理解しているスピリチュアルケアの実際について講義を担当しました。
ある時に、相模原の看護大学から実習に来た学生の引率教員の方から呼び止められました。
それは、『前回の見学実習の際に、牧師さんから聞いたお話がとても心に響いた』と言うのです。
話を伺ってみると、その方は、『当時、自分は職場で四面楚歌の状態にあって、そんな行き詰まっていた時に、伺ったお話が自分のために語られているようで、とても慰められた』ということでした。
もちろん、私はそんな事情を承知で話をした訳ではないのですが、私の話した内容がその人の現実に語り掛け、インターアクションを起こしたのだということです。
この経験によって私は、問題解決に直接手を出す立場になくても、誰かの力になれることがあるということを理解しました。
私たちの祈りに耳を傾けてくださる神様という方は、より一層そういう立場にいて私たちの祈りにさえならないつぶやきにも耳を傾けてくださる方ではないだろうかと思います。
この世では惨めな生活を送るしかなかったラザロを天に引き上げる時、神様は天使の守護をもって彼を父祖アブラハムの懐(ふところ)に迎え入れて下さったのです。
社会の中に存在するどうしようもない不公平に声を上げることすらできなかったラザロは、天上で初めて至福を味わったのです。そこには、神の正義がありました。
さて、あの金持ちも死んで陰府(よみ)に下りました。
しかし、彼が置かれた場所は、ラザロのいる所からは隔てられていて、彼は陰府の中でさいなまれていました。
そんな時、はるか彼方にいるアブラハムとラザロの姿を見て、金持ちは叫びます。
『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
ルカによる福音書 16章24節
金持ちは、死んでも金持ちだった自分のままなのです。
炎の中でもだえ苦しんでいる自分のために『ラザロをよこせ』と要求しています。
生きていた時の身分の違い、階級意識は何も変わっていないのです。
それに対して、アブラハムはキッパリと答えてこう言います。
『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
ルカによる福音書 15章25ー26節
金持ちに反感を抱く人は、このアブラハムの言葉を痛快に思うかもしれません。
「生きていた時の不公平さは、このように解消され、結局は五分五分になるのだ」というように。
でも、事柄はもっと深刻なのです。
金持ちの要求は突っぱねられたばかりか、『お前は、こちらの領域に入ることは許されない』と、わずかな希望さえ与えてもらえないのです。
そのような言葉を聞いた金持ちが案じたことは、まだ地上で生きている自分の五人の兄弟のことです。
『あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』と、せめてものお慈悲を下さいと願うのですが、それすらも受け入れてはもらえませんでした。
無慈悲であった金持ちの心にも人の心があったのだと、そう読者が感心することすら許容させてはくれないのです。
生きていた時の人の行いやあり方は、こうまで陰府で裁かれるものなのかと震えてしまいそうです。
神の正義とは、考えようによっては恐ろしいものです。不公平さを無くして、均等に分けてあげようという発想が神の正義なのではなくて、神がこうしようと思った通りにすることが神の正義の為すところなのです。そこには一切の妥協ということがありません。
『ラザロは、生きていた時に悪いものを受けていたから、ここでは慰められる。
しかし、お前は、良いものを受けていたから、ここではもだえ苦しむのだ』と。
愛と慈しみの神にしては酷すぎると思う読者がいると思います。
では、金持ちの言い分はどうだったかということを考えてみましょう。
金持ちは、自分の兄弟のことを考えて、自分たちのあり方をよく考えるように彼らに言い聞かせて欲しいと願うのですが、それは自分のあり方を後悔したものの、悔い改めたということではないのです。
生きていた時には、自分の思い通りに何でも叶ったことが、ここでは通用しないことを知って、慌てたに過ぎないのです。そこで、誰か死者を遣わしてでも、五人の兄弟のために便宜を図って欲しいと、「自分のために」要求をしているのです。
「兄弟たちが、悔い改めるように」という言葉を使ってはいますが、アブラハムは死者となった金持ちの要求には耳を傾けず、彼らにはモーセと預言者の知恵と信仰が与えられているのだから、それに聞き従い、悔い改めることは彼ら自身に任せよと、金持ちの要求を聞き入れませんでした。
ここで、「金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方がまだやさしい」と言ったイエスの言葉を思い起こした人もいるでしょう。
イエスは、金持ちを敵対視しているのでしょうか。
そうではなくて、神の国の価値を受け入れることと地上で得た富に固執することは両立しないと言っているのです。「どちらかひとつしか手に入れられないとしたらどうする」と問いかけているのです。
神の正義が為される時、誰一人傷つく人もいなければ、損をした人もいなかった訳ではありません。
神は、正義を行なわれるために大きな犠牲を払いました。人に、その罪禍を負わせようとはせずに、自らが全てを引き受けることを決断して、イエスを犠牲の供え物として十字架に架けたのです。
それは、とても尊いことだったのですが、喉元を通り過ぎると全てを忘れてしまう悪い癖が私たちにはあります。
だから、日毎にこのことを思い起こし、神に感謝を込めて祈りを献げる必要があるのです。
あの金持ちのように、どのように後悔しても、もう時遅しとならないためにも、地上の社会の利権を超えたところで神の正義が行われていることを信じて、今日また思いを新たにしてそれぞれに帰途に着きたいと思います。