2021年6月13日 花の日礼拝メッセージ


  聖   書   マタイによる福音書 18章1-14節
          ヤコブの手紙 2章5-9節

  讃 美 歌   543 キリストの前に
          419 さあ、共に生きよう

  交 読 詩 編   詩編 23編1-6節

  招きの言葉   エゼキエル書 34章16節


「失われた者を連れ戻すために」



「いと小さき者」とは、誰のことでしょうか?
皆さんは、どんな人のことを想像するでしょう。

マタイによる福音書18章前半では、イエスがいと小さき者を守ろうとする神の覚悟と決意について語った様子が描かれています。

その覚悟と決意が相当なものであることが分かる出来事と勧め、そしてたとえ話。
・「天の国でいちばん偉いのは誰か。」この弟子たちの問いに対して一人の子ども
  を皆の中心に立たせたイエス。
・「いと小さき者をつまずかせる者へくだされる災い」
・「迷い出た羊を探し出す羊飼いのたとえ」

ヤコブの手紙2章前半では、社会の中の貧しい人たちを辱めたことへの厳しい叱責と批判を手紙の著者が当事者たちにぶつけています。
そして、
『神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか』という事実を忘れてはいけないと戒めるのです。

このことは、今、自分自身がどのようにして神から招かれて、礼拝の席についているのかを考えてみると、誰一人として自分の学歴や職歴、社会的ステータスを考慮して選ばれたのではないということが分かるはずです。

むしろ、「迷い出た羊を探し出す羊飼い」のたとえ話を読んで、自分とその一匹の羊を重ね合わせて、だから自分は神を礼拝する集会へ招かれているのだと考える方が自然なことだと言えます。

迷い出た羊とはどんな羊か?
山浦玄嗣さんは、こう表現しています。
「迷子の馬鹿羊」
「迷わないでいた[利口な]九十九匹」
「迷子の[馬鹿な]一匹」

自然界では、群れから離れて一匹になるということは、自分の命を危険に晒すことに直結します。あなたがその様子を目の前で見ていたとしたら、何でそんな行動を取るのだと怒りの混じった思いをぶつけるに違いないと思います。群れから一人離れていくことはどう考えても愚かなことだと認識できるからです。
この一匹のことを、現代的な感覚で、「馬鹿な羊」などと呼んではいけないと言うことにはあまり意味がないと思います。

YouTubeの動画に、どこかのアジアの国で、赤ちゃんを乗せたバギーを脇に置いて、携帯電話に夢中になっている両親の様子が映し出されています。少し離れたところに若い男の人が立っています。その目の前で、後方をよく確認しないでバックをしてくるトラックがバギーを轢きそうになります。
それでも、携帯に夢中で自分の子の危機に全く気づかないでいる若い親たち。そばにいた男の人は咄嗟にバギーに手を掛けて脇へ寄せ、事なきを得ますが、両親はそのことにすら気づいていません。男の人はバギーを止めると、その次の瞬間、若い親たちの携帯電話をむしり取り、地面に叩きつけます。

子どもの危機に際して、あるいは子どもが悪い道へ逸脱しようとする時に、親は怒鳴ってでもその危機や逸脱行為から大切な子どもを救う義務があります。それができない親は親失格です。
ましてや、今紹介した動画での出来事なような親の態度は、子どもをみすみす死に至らせるような愚かな行為、無関心な態度です。

だから、群れから離れていこうとする[馬鹿な]羊がいたとすれば、長い杖を使って羊を叩いてでも逸脱させないようにするのが羊飼いの責任です。
詩編23編を読んで、牧歌的でのどかな様子を想像する人もいるかもしれませんが、迷い出る羊がいたのならば、長い杖を使い、あるいはむちを使ってでも羊を連れ戻すのが羊飼いの役割です。そこには、羊を思いやる厳しい羊飼いの姿が描かれています。詩人は、その姿に神の導きと支えを想像し、期待しているのです。

ところが、イエスの語ったたとえ話では、群れから離れてしまった羊の姿は見えません。どの時点でいなくなってしまったか羊飼いにもわからないのです。
その後の羊飼いの考えと決断は大胆なものでした。九十九匹を置いて、見失った一匹を探しに行こうというのです。
羊たちにとっては、羊飼いは命綱です。
その命綱を欠いた羊たちの運命は、危険極まりないものです。
羊飼いは、その残された九十九匹を見捨てるつもりなのでしょうか?

この羊飼いの決断には、現代の災害現場でのルールや危機管理マニュアルは適応されないのです。どこに行ったかわからない一匹の羊を追いかけて、全体を危機に晒すべきではないという考えは持ち込まれません。見失った羊はかけがえのないものであり、捨て置けないという心意気が羊飼いには感じられます。群れの中に見当たらないということ自体が重大なのです。

ところで、イエスが使っている「つまずかせる」という言葉についてですが、しばしばこの言葉は間違った使われ方をしてきました。
「誰それが、ある人をつまずかせた」と、その当事者を非難する場合に、もしくは、「何々するのは、人をつまずかせることになるから良くない」と、自分の考えを理由づけるために使われているのをこれまで聞いてきました。

英語の聖書を読んでみると、確かに”stumbling block”と表現されています。
「私を信じるこれらの小さき者らの一人の前につまずきの石を置く者は」とイエスは言っています。問題は、そのつまずきの石とは何かということがはっきりとは示されていないことです。
山浦玄嗣さんは、このつまずくという言葉を「横道に逸れてしまう」と翻訳しています。そして、つまずきの石を置く、つまずかせるというところは、「横道に引きずり込む」と表現しています。

横道に逸れるということは、真っ当な道を進んでいない、真っ当な生き方をしていないということです。では、何が真っ当で、何が真っ当ではないのか。
「天の国に入る」というもともとの話しの流れから理解すると、この世の基準や価値観で神の御心を測り、それで自分は正しいと思っているけれども、実はそれは神の御心からは程遠く、しかも他者を横道に引きずり込んでも知らん顔の大勘違いをしている者のやり方、生き方ということになります。

だから、つまずきの石を置くとは、自分が道を逸れていることを知らない人の独りよがりな思いが他人をそれに巻き込むのだというように私は理解します。
意識的に人の邪魔をすることや明らかな妨害をすることは許されませんが、無自覚的に他者の自由を阻害している場合の方が実は深刻です。

他人の話を聴くということを自分の専門としている立場から考えると、相手が話そうとする機会やタイミングを遮らないようにするということは心掛けているつもりでも、つい、自分の方から言葉を出してしまうことがあります。
じゃあ、どうすれば相手が主導権をもって話せるようにすることができるか。
「待つ」ということが大事になってくるわけです。相手の心が動き出してくるのをじっと待つということは、会話が滑らかになるように働きかけるのではなくて、その人が本当に話したいことを自身で話せるように助けるのです。

イエスが天の国のことを話す時に、一人の子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」マタイによる福音書18:3-4
と言ったのは、まず自分自身を省みて、本当に神様のお取り仕切りにふさわしいあり方をしているのは誰なのかを良く考えてごらんなさいということなのです。
子どもを真ん中に立たせてこう言ったのは、弟子たちは子どもが天の国にふさわしいなんてことは微塵も思っていなかったからです。

「この世で最も小さい者とされた人に、神は天の国を用意してくださる。」
これが、イエスが一貫して語ってきたことです。私たちもこの言葉に耳を傾けて、自分自身のことを省みる必要があります。
一人の子どもを招いたのは、単なるパフォーマンスなどではなくて、いと小さき者を目の前に置いて、「この人を見よ。この人においてこそ神の栄光は現れるのだから」というイエスのメッセージの核心に触れる出来事だったのです。

今日は花の日です。
先日、皆さんで寄せ書きしたアジサイのカードをお二人の友人にお贈りしました。
Yさんからは、素敵なカードが届きましたとお電話がありました。
Iさんからも、立体的なアジサイのカードをすぐにテレビの前に飾りましたと、電話口から嬉しそうな声が聞こえてきました。
また、大切なお身内を亡くされた友もいます。

一人ひとりの心の思いに神の霊の息が吹きかけられ、悲嘆の中にある人には、悲しみが癒されて、慰めを受けることができるように、孤独で淋しい気持ちの中にいる人には、「あなたは決して一人ではないよ」という温かい言葉が与えられることを願って祈りを合わせましょう。

神のみ前においては、私たち一人ひとりは尊い兄弟であり姉妹なのです。


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