聖 書 ルカによる福音書 19章1-10節
エフェソの信徒への手紙 5章1-2節
讃 美 歌 351 聖なる聖なる
300 十字架のもとに
交 読 詩 編 86編11-13節
招きの言葉 エゼキエル書 34章16節
ザアカイという人について、イエスとザアカイの出会いの話を既に知っている人もそうでない人も、あらためて聖書で読んでみてどんなイメージを持つでしょうか?
収税人の実態というものは、なかなか分かり難いものですが、ザアカイの家に自分から行きたいと言ったイエスの行動に町の人たちが「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」と言ったことを考えると、蔑みの対象であったということが容易に想像できます。
もし、ザアカイが収税人の頭でなかったらイエスとの出会いはあったでしょうか?イエスは、収税人であるザアカイを見て声を掛けたのでしょうか、それとも何か別の理由があったからなのでしょうか?
イエスを自宅に招いたザアカイが自ら告白するまで、イエスはザアカイが何者であるかを
知らなかったのかもしれません。知らなかったと言うべきか、関心がなかったということだったのか。
人は、自分に関心のある人の視線は感じるものです。イチジクの木に登って一目イエスを
見ようとしたザアカイの熱い視線をイエスは感じました。
それまで、人々からは反感と蔑みの対象として見られ、名前で呼ばれることすらなく、
「罪深い男」という言い方でしか認められていなかった男に、そういった属性(その人に付随しているもの)を何ら意識することなく、無防備で近づいて行ったのはイエスだけだったのでしょうね。
ザアカイの自分への関心にイエスは自分も関心を寄せたということです。
他人のことを偏った見方で見ることを「色眼鏡を掛けて見る」と表現することがありますが(ちょっと古い言い方でしょうか?)、私たちは多かれ少なかれ他人のことをそのような見方で見ていると思います。
その人の職業ということも例外ではないと思います。ザアカイに対するほど強い思い込みでなかったとしてもです。
そういった私たちのあり方は避けられない面がありますが、自分の見方が偏っているということはなかなか意識しにくいものです。
意識しないので、一方的で偏った見方はなかなか直らないということになります。
ところが、イエスは真っ直ぐな自分への関心に真っ直ぐに反応したのです。純粋な関心に
純粋な関心を寄せる時に出会いは起こります。
それが、ザアカイとイエスとの出会いでした。
「心を許す」という経験が皆さんにもあると思います。
普段だったらなかなか言わないような自分の心にしまってある事柄を、『この人になら話せる』と思った時に、告白することです。
ザアカイが自分の心の中にしまっていたことはどんなことだったのでしょうか?
ザアカイはそれを誰かに打ち明けたいと思っていたのではないでしょうか。常日頃から。
それをできる人が現れたのです。そして今、自分の目の前に座っている。
どのタイミングでそのことを話そうか、ドキドキしていたと思います。
その話の内容は意外なことでした。
ザアカイにとっては意外なことではなかったのですが、おおよそ周りにいる者にとっては
意外な内容だったと思います。『この人の口からこんなことが出てくるなんて?』と。
イエスは、ザアカイの言うことに静かに耳を傾けていました。そのザアカイの口から出てくる言葉は全て正直な内容でした。
人々からは、自分は罪深い男だと言われている。そのことを百も承知している人間が、自分の罪を自ら告白するのです。その罪とは、まず第一に、「自分がしてこなかったこと」に対する告白と、「では、これからどうするのか」という意思表示です。
「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。』」
ルカによる福音書19:8
このザアカイの告白を聞いて、イエスに『どうすれば、永遠の命を手に入れることができるでしょうか』と問うた金持ちの青年(あるいは議員)の話を思い出した方もいることでしょう。(マタイによる福音書19章16-30節、マルコによる福音書10章17-31節、ルカによる福音書18章18-30節)
そのやり取りの中で、イエスから『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。』と言われた金持ちの青年(議員)は悲しみながらイエスの元を立ち去ったのです。それは、有り余る程にある自分の財産を貧しい人のために使う気にはなれなかったからです。
イエスから、「自分がしてこなかったこと」を指摘され、「それをしなさい」と言われても自分の気持ちを変える気にはなれなかったのです。もしこの人に、ザアカイが示した正直さのかけらでもあれば、この人は変われたかもしれません。
ザアカイが、『財産の半分を貧しい人に施します』と言ったのは唐突な考えではなく、
「こうありたい」と願っていた自分の姿であり、これまでそうしてこなかった自分の罪滅ぼしの気持ちから出たことだったのだと思います。
では、『また、だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します』という告白をどう聞いたら良いかということですが、伝統的な解釈では、収税人が人々から嫌われ、蔑まされていたのは、彼らが規定のものよりも多くを徴収し、かすめ取り、私腹を肥やしていたという実態があったからだという説明です。
そうすると、『だれかからだまし取っていたら』というザアカイの告白は、実態を反映していないことになります。(「そういうことが仮にあったとすれば」と解釈した場合)
この箇所について聖書協会共同訳では、『また、誰からでも、だまし取った物は、それを
四倍にして返します』と翻訳されていますから、実態に合った罪の告白をしているということになります。
これが、ザアカイの第二の罪の告白、「自分がしてきたこと」の正直な告白と、「では、
これからどうするのか」についての意思表示です。
人は、自分自身のことを振り返る時、いろいろな振り返りの仕方があると思いますが、
ザアカイの告白はその方法の基本を示してくれるものです。
すなわち、人は自分のこれまでの歩みやあり方を振り返る時、「自分がしてきたこと」について思い起こし、そのことに正直に向き合う必要があります。それは、何年、何十年という時間の中での出来事を振り返ることもあれば、この一週間、また今日一日を振り返るということもできます。
誰でも、他人に対して悪意を抱いたことや他者の利益より自分の利益を優先させたという
経験はあるでしょう。そういったことを取捨選択しないで正直に自分がこれまでしてきた
ことやその時々の気持ちを振り返った時に、自分の罪を意識しないでいられる人はいないと思います。
たとえ、自分には「してきたこと」での落ち度はないと主張する人でも、「してこなかったこと」に焦点を当てた時にはどうでしょうか。金持ちの青年が指摘され、問われたように、「生活に困窮している人への積極的な援助はどうか?」と自問したらどうでしょうか?
『してこなかったことにもあなたの過ちがある』と言われることに抵抗感を持つ人があるかもしれませんが、ザアカイはそのことを自分の問題だと認めたのです。
このようなザアカイのあり方は、もちろんイエスとの出会いがもたらしたものです。では、どうしてザアカイはそんなにも正直になれたのかと言えば、それはイエスの『ザアカイ』という呼び掛けによって心を動かされたからだと思います。
どうして面識のない人物の名前を知っていたのかという素朴な疑問は出てきますが、それよりもイエスが自分の方から『ザアカイ』と呼び掛けたことに私は驚きを覚えます。
自分の名前を呼ばれるということは、人が社会(人と人との繋がり)の中で生きていることを認められているということです。
コロナ禍にある生活となって一年が過ぎ、私たちの社会の中で孤立している人、強い孤独感を抱いて過ごしている人が大勢いることがクローズアップされてきました。この問題への認識から政府は担当部署を立ち上げ、担当大臣を任命し、職務に当たらせようとしています。
社会の中での孤立や孤独の問題をここで詳細に論じることはできませんが、人がどのような時に深い孤独感を感じるか、また人の交わりから孤立していることを強く感じるかというと、それは、人が大勢周りにいても自分はたった一人ぼっちだという感覚を持った時に、人は深い孤独感や強い孤立感を感じるのだということです。
この理解を持つようになったのは、私が人々への意識調査をした結果ではありません。死に直面していた若いがん患者の男性が、愛情深い家族に囲まれていたにもかかわらず、深い孤独感を感じているという告白を聞いたからです。愛情深い家族に囲まれていたにもかかわらずではなくて、そのような愛する家族がいるからこそ、本当はその繋がりの中で生きていきたい、でも自分だけ一人死んでいかねばならないその方の孤独感は誰にも理解できないほど深いものだったのです。
収税人の頭で大金持ちのザアカイという男の孤独ということを考えた人はいたでしょうか?
親しく名前を呼び合うような関係にあった人がどれほどいたでしょうか?
この人の深い孤独感を見抜き、親しくその名前で呼び掛けたのは、イエスの使命ということが深く関わっています。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書19:10
イエスのまなざしは、失われた者、すなわちこの社会ですでに忘れ去られた存在、人の関心に上らない存在や軽んじられている存在、親しく付き合うことを拒絶され人間関係から外された存在、そういった意味で失われた者たちに向けられているのです。そのような「ひとり」を探し出し、連れ戻すためにイエスは町や村に足を運んでいくのです。ザアカイは、紛れも無くその「ひとり」だったのです。
「罪深い男」から「ザアカイ」という名前と個性を持った大切な存在として神に愛され、
認められていることを証しするためにです。
ザアカイの「変化」に対する同席していた人たちの反応は記されていません。
しかし、イエスはザアカイの告白と宣言(意思表示)を聞いて大いに喜びました。
「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
ルカによる福音書19:9
同胞からは疎んじられ、罪人扱いされているザアカイは、『あんな奴、俺たちの同胞なんかではない! アブラハムを父祖とする資格などない!』と言われていたに違いありません。
イエスは、ザアカイの名誉をも回復してくださったのです。彼が翻って、神の子にふさわしい歩みをたった今始めたからです。
愛を知らない人は他者を大事にできないだけでなく、自分自身をも愛することができません。ザアカイの告白は、今後自分がどのような存在として生きていくかを表明したものです。
困窮している他者のために自分の財産を捧げることは、愛がなければできません。その愛とは、『隣人を自分自身のように愛する』愛であり、愛されている自分自身があるからこそ他者の困窮に心を動かされる思いやりに満ちた愛を注ぐことができるのです。
ザアカイは、自分が愛されていることを知りました。他の誰でもない、イエスが自分の懐に入ってきてくださったので、どこかで立ち直りたいと信じていた自分の心を蘇らせることができたのです。
終わりに、
使徒パウロがエフェソの信徒へ書き送った手紙の一節を、私たちへのメッセージとして聞きたいと思います。
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 キリストが
わたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちの
ために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙5:1-2