2021年1月10日 礼拝メッセージ


  聖   書   ルカによる福音書 11章 9‐13節
          ヨハネの手紙1   3章 21‐24節

  讃 美 歌   494 ガリラヤの風
          543 キリストの前に

  交 読 詩 編   詩編 119編 33‐37節

  招きの言葉   イザヤ書 55章 6節


「信じて祈る時には」


私たちは本当に信じて祈り求めているでしょうか?

神が、私たちの祈り求めに対して必ず応えてくださると信じてです。

イエスもヨハネの手紙の著者も、「確信」について語っています。
祈り願うものは必ず与えられると。
信じてそうする者は、空振りをすることがないと。

もしその通りだとしたら、私たちの確信が問われていることになります。
祈り求めるあなたの確信はどこにあるのかと。

信じるということは、自分の気持ちを押し出すことではありません。
確信ということは、自分の偽らざる気持ちの表明ではなく、信じ切ることのできない自分を神の力の中に委ねることです。
本気で寄り掛かることができるかどうかということです。
命綱を信じることができなければ険しい山の登山はできません。自分が足を踏み外した時に滑落しないように自分を託すものが命綱です。その命綱を頼って、断崖絶壁を一歩一歩進み、頂上を目指して行くのです。

今年の新年の参拝は、時間を短縮して行った神社があったようですが、それでも明治神宮のように多くの人が押し寄せている光景をテレビの報道で見ました。

大概の人にとっては年中行事のひとつなので足を運ぶのでしょうけれど、どんな確信を抱いて参拝しているのでしょうか?
自分が祈願したことが聞かれるかどうかということをたいして真剣に考えることなく参拝している人も大勢いるだろうと思いますが、確信を抱いている人がいるとしたら、誰に対してどのような確信を抱いているのか訊いてみたい気がします。

イエスが十字架に掛けられる途上でどんな事を考えたのか。
自分の命は人の罪を背負って、人のために献げられるものだという確信はイエスの中で明らかであったと福音書は伝えていますが、肉体的、精神的には極限状態を経験する中でイエスは最後まで神の御心を祈り求めました。
『本当にこれはあなたの御心とするところなのでしょうか、それとも別の選択肢が用意できると考えても良いのでしょうか』と。

エリザベス・キューブラー・ロス博士の書いた『死とその過程について』(邦訳では『死ぬ瞬間』)では、臨時患者へのインタビューから得られた知見として、「死の5段階」ということが書かれています。
その中で、取引きという過程のあることが述べられています。
治癒することが不可能と診断された病気に自分が罹患した明確な理由が見つからない中で、『もし、この病気を癒していただけるのでしたら、自分は心を入れ替えて今度は人のために役立つ人間になります。だから、どうか自分の病気を治してください』というように、条件を出して神と取引きをするというのです。

しかし、多くの場合その交渉は現実的なものとはならず、どのような条件を出しても取引きは成立せずに、人は変えられない運命を受け入れざるを得ないという結末を迎えることになります。

イエスの場合は、このように神と交渉をしたのでしょうか? 
言うことを聞かない、神に対して罪深い人間を悔い改めさせるためにもう一度奮闘してみるから、十字架に掛けられるという決定を変えてもらえないだろうかと、神の意思を変えようとして、神と取引きをしたのでしょうか?

そうではないと思います。
交渉でも取引きでもなく、イエスは自分の信頼を全て神に委ねようとするのです。「私の思いはあなたと共にある」という確信をどこまでも自分のものとして留めておくことができるよう、必死になって神に寄り頼んでいるのです。

十字架に向かう道筋はどう考えても絶望への道のりです。死という運命は変えられないことを決定づけるものです。その絶望の中で自分の命を救うものがある、命綱として自分をしっかりと神と結びつけているものがある。それは、神は私の祈り求めを必ず聞いてくださるという確信なのです。ただそれだけを頼りにイエスは十字架への道を歩いて行くのです。

『足跡』("Footprints")という名で知られている祈りの言葉がありますね。
この祈りの信仰に批判的な人もいますが、その人は、苦しみを抱えて悶えている人と対面した経験が浅く、人の気持ちの分からない人なのだと私は思います。
作者は、砂浜に残った足跡から自分のこれまでの人生の跡を辿ります。自分の人生を振り返るわけです。この人は、人生の晩年を迎えている人なのか、おそらくそういう設定だと思いますが、自分は神と共に人生を生きてきた。多くの場面でそう信じることができる。なぜなら、自分の足跡の隣にはもう一人の足跡がはっきりと残っている。これは、神が自分の人生の同伴者として歩んでくださったことの紛れもない証し。でも、一点だけ腑に落ちない点がある。それは、自分の人生の中で困難を極め、最も厳しい時間を生きていた期間には自分一人の足跡しかない。神はその期間私のことを無視しておられたのか? 一番あなたの助けを必要としていた困難な時期にどうして一緒にいてくださらなかったのか?
神に対するこの人の確信が揺らぐのです。

ところが神はその疑念に応えてこう言うのです。
『私は決してあなたのことを見捨てていた訳ではない。あなたがたった一人で生きていたというその時期、一つの足跡しか残っていなかったのは、私があなたを抱いていたからなのだよ。』

皆さんにも私にもそのような孤独を経験した時期がきっとあるだろうと思います。誰もそばに居てくれず、誰も力になってくれず、見捨てられたようにしか思えない時期を過ごしたことが。

そんな時期を過ごしたことのある自分が、この祈りの作者のように神に問い正したとしたら、神は何と言って答えてくれるでしょうか。私たちをがっかりさせるような事は言わないと思います。
『あなたには見えなかったのかもしれない。気づかなかったのかもしれない。あなたは、余りにも孤独で、辛く悲しい時間をひとりで過ごしていたから。』
『それは、あなたが見ても見えず、聞いても聞こえない、そういう状態にあったからなのだよ。私は、あなたと共にいて、そういうあなたの命が失われないように見守り、支え続けたのだよ。』

きっと、そう言ってくださるに違いないと思います。

あなたは孤独だった時の自分の気持ちを後に残して、この言葉を信じて神の御許に自分の身を寄せることができるでしょうか。
それが、神のみ前に確信を抱くという事なのです。
自分の所信表明ではなく、信じ切れない自分をさらけ出してでも、自分を信じて下さる神の心意気に応えて、従って行く自分を見出すことなのです。

そのように信じることのできる自分を発見した時に、私たちは心の平安を取り戻すことができるのだと思います。

最近観たドラマの中で、成長した娘が学生だった頃の自分と父親の思い出を回顧して、「学園祭の演劇の主役に選ばれて、すごく嬉しかった。けれど、本当に自分なんかに主役が務まるだろうかと不安になって、家の中でギャーギャー言ってたら、お父さんに、『うるさい! そんなに自信がないんだったらやめちまえ!』って言われたの。」
「分かってないよね。そんな時には、『大丈夫だよ。お前ならきっとできるよ』
そう言って欲しいのに。」

耳の痛いセリフでした。
私には娘はいませんが、似たようなことを何度も言われたことがあります。
気持ちの後押しが欲しい時には、叱咤激励などせずに、ゆっくり背中を押して欲しいということだと思います。

ドラマの終盤で、不治の病を抱えた娘が最期の時を過ごすために夫の元へ戻って行く時、何かを言って送り出したい父親は娘に向かってこう言います。『大丈夫だよ。お前ならきっとできるよ。』
いろいろな思いを込めてそう言ったのだろうと想像して、また、その言葉をしっかりと受け止めた娘の姿を見て、とても切なくもあたたかい気持ちになりました。

自分がとてつもなく大きな困難を経験している時、そして何の解決の糸口も見出せない時には、不安に押しつぶされそうになり孤独を感じるので、まるで自分は見捨てられているような心境になることがあると思いますが、本当は一人ではないのです。
十字架への道をたった一人で歩いて行ったイエスに、その苦しみの中で何度も倒れそうになる中で、神は直接手を出さず、最も苦しい後押しをし続けていたのです。
自分の身内であるはずの弟子たちにさえ逃げられ、見捨てられ、そのような孤独の中にひとり置かれているイエスのことを、神はそうやって守り続けたのです。

自分が献げる祈りに何の応答もないと思える時、私たちは神を疑ったり、あるいは自分の不信仰を嘆いて、だから神は祈りに応えてくれないのだと間違った罪意識によってさらに自分を苦しめてしまうことがあります。

そういう思いから私たちを解放してくれることが神の救いなのです。もともとの苦しみに加えて取り越し苦労までしてしまう私たちに、『重い荷を降ろしていいよ。取り越し苦労なんていなくていいんだよ。ただ、十字架を担いで行った私の姿を思い起こして、そこに満ち溢れている神の愛と助けとを信じさえすれば。』

そのようなイエスの声を聞くために、私たちは一人静かに祈り、神に向き合う時を持つのです。どのような祈り求めであっても、批判したり評価したりせずに、黙って聞いて下さる方であると信頼して、自分の心の内にあることを申し述べる時、私たちは自由な心を持った「わたし」を再び取り戻すことができるのです。

前ページに戻る